STORY 東京海上日動火災保険 vol.20

グローバル事業の拡大に挑む、レジリエントな開拓者

TOKIO MARINE AMERICA Senior Vice President
鍋嶋 美佳さん

東京海上日動火災保険の米国現地法人のニューヨーク駐在員、保険分野の難関資格の保有者、フルタイムで働きながら2人の子どもを育て上げた母――。鍋嶋美佳さん(49)にはいくつもの顔がある。前例がない道を、培ってきたレジリエンス(変化に対処する能力、再起力)とチャレンジ精神で切り開いてきた。今はグローバル事業の拡大と成長、それを支えるグローバル人材の育成という新たなミッションに挑んでいる。

「女だから・・・」に奮起、知識と経験ではね返す

鍋嶋さんが働くのは東京海上日動の米国現地法人「トウキョウ・マリン・アメリカ(TMA)」。米国に進出している日系企業を中心に、事故や災害が起きたときに契約顧客の問題解決を支援し、保険金を支払う損害サービス部門を統括している。2017年4月に同社のシニア・バイス・プレジデントに就任した。米国内の各拠点の組織体制強化やサービス品質の向上のほか、東京の本社と連携して米州の事業戦略を考える重要な立場にある。TMAのシニア・バイス・プレジデントに女性駐在員が就くのは初めてのことだ。

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鍋嶋美佳さんは米国現地法人「トウキョウ・マリン・アメリカ」のシニア・バイス・プレジデントに女性駐在員として初めて就いた

鍋嶋さんは1991年に当時の総合職として東京海上日動に入社した。いわゆる男女雇用機会均等法の第1世代として、さまざまな場面で「女性初」を経験してきた。

企業損害部に配属された新人のころは、まだ女性社員が顧客と直接向き合う現場にいること自体が珍しがられる時代。取引先にあいさつに行くと「あなたが担当なの?」という反応を受けることが多々あった。もちろん入社したての頼りない社員であれば、男性でも女性でも往々にしてそんな反応が返ってくるもの。そう分かっていても「明らかに女性だから言われているんだなと感じるときは、一個人として見てくれないことが悲しかった」と振り返る。

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「ロールモデルがいなくても自分がどうするべきなのかを見極めるのが大切」

入社1年目の時のことだ。「これだから女はだめなんだよ!」。取引先の担当者にこんな言葉を投げつけられた。理由は折り返しの電話が遅かったといった、新人時代ならありがちなミス。それを「女だから」と言われたことに思わず言葉を失った。大学時代までは男女平等の価値観の中で育ってきて、初めて言われた一言。けれど、そこで泣いたり投げ出したりして「やっぱりね」と言われるのは絶対にいやだった。

「私は私のやるべきことを懸命にやるのみ」。知識と経験を積み、力をつけていくしかない。一人前の仕事をすれば認めてくれる人は認めてくれる――。そう言い聞かせて、前を向いた。それまで女性社員が行ったことがなかった宿泊出張や事故現場での対応も次々とこなした。実績を重ね、実力を付けていった5~6年目には顧客のほうから「鍋嶋さんに担当してほしい」と指名されるほどになった。

米国の難関資格を取得

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ニューヨークにて。年々複雑化する企業のリスクに対応するため、米国認定損害保険士の資格が基礎体力として役立っているという

女性とか男性とかではなく、プロフェッショナルとして実力で勝負する。そんな鍋嶋さんのポリシーを象徴するのが「米国認定損害保険士(CPCU)」の取得だ。現地の保険会社でもわずか数パーセントの社員しか保有していないといわれる難関の資格。保険関連の法規や会計学など8科目の試験に合格する必要があるが、どの科目もテキストは電話帳のようなボリュームがある。もちろんすべて英語の筆記試験だ。

きっかけは2003年の最初の海外赴任。現在と同じニューヨークに転勤した際に、当時の上司から日米の保険制度の違いを知るために有効な資格と紹介された。当時の担当業務は企業の製造物責任などの損害サービス。顧客の訴訟案件や重大な事故など複雑な案件に追われる多忙な毎日で、仕事が終わって家へ帰る約1時間の電車のなかが勉強部屋だ。それだけでは間に合わず、試験直前は帰宅後も日付が変わるまでテキストをめくり続けた。

「いま同じことはとてもできない」と振り返るほどのハードな試験勉強。鍋嶋さんを駆り立てたのは、赴任当初に感じた「日本からやってきた駐在員のお手並み拝見」という現地社員の視線だった。「米国の保険のことを分かっていることをパッと示したい」。米国人でも5年かかるといわれる資格試験をわずか2年で見事合格した。

「上へ登り続けるお母さんを見て僕は頑張ってきた」

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育児中、重要な会議などの日は「夫と予定を調整した上でバックアッププランも用意して万全に臨んだ」

これと決めたらやり抜く意志の強さを持つ鍋嶋さん。好きな言葉は「一生懸命」。何事にも誠意をもって全力を尽くすのが信条だが、「完璧を目指しているわけではない」とも。目標とするのはあくまで「いい結果を出すこと」。多くの利害関係者と複雑な事象、白黒だけが答えではない本質を捉えた解決を導き出すために想像力を駆使し、柔軟性を兼ね備える。

それを学んだのは2人の子どもの育児だ。入社翌年の1992年に育児休業法が施行され、95年に長男を出産。育児休業を取得したのは社内でもまだ2、3番目のケースだった。

1年の休業を経て、休む前と同じ企業の賠償責任保険を扱う東京損害サービス第一部という部署にフルタイムで復帰した。周囲の社員と変わらず担当する流通業や建設業、銀行・リース会社を飛び回る毎日。次男が誕生して2歳を迎えた2000年には神戸への異動の辞令が下った。長男と次男は同じ保育園に入れず、朝晩2カ所の保育園と自宅、職場を駆けずり回る日々が続いた。

「当時は総合職、一般職という区別が厳然とあって、私は総合職。会社も自分自身もフルで働くのが当然という考えだった」。そんな状況で両立するためには「全部は完璧にはできない」との割り切りが必要だった。譲れない大事なことを軸に、柔軟に対応する。保育園の迎えも「夫が行くか、祖父母が行くか、シッターさんにお願いするか」。一人ですべてカバーしようとせず、いくつも選択肢を持ちながら子どもの発熱など予期できないリスクに備えた。幸い、夫も「子どもは2人で育てるもの」という考え方。鍋嶋さんが神戸に異動したときも、03年からの米国駐在でも夫婦一緒に乗り切った。

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仕事と子育ての両立で磨かれたのは本質を見抜く力とタイムマネジメント。すぐ決断することが効率性アップの秘訣と語る

この4月に次男が大学に入学。鍋嶋さんも忙しい合間をぬって一時帰国し、入学式に出席した。ふと写真共有サイトのインスタグラムの息子のページを見ると、鍋嶋さんへの思いがつづられていたという。「いつまでも上へ登り続けるお母さんを見て、僕も頑張ってきた」。インタビューの間、何でもよどみなく答えてくれた鍋嶋さんが唯一、言葉を詰まらせた瞬間だった。

ダイバーシティを生かして成長する

仕事でもプライベートでも、決して楽ではない状況を乗り越えるレジリエンス。その源泉は幼いころの環境にあるかもしれないと鍋嶋さんは話す。小学2年生のときに父の赴任先だった米国から帰国。日本語がおかしい、髪の毛も赤茶けていると言われ、「ガイジン」とからかわれた。渡米しても帰国しても周囲との違いを認識し、それぞれの環境に適応していくことで小さな成功体験を積み重ね、「やればできる」という楽観的な自信につながったという。

そこにあるのは単なる負けん気ではなく、「私は私、一個人だ」という思いだったとも。そんな原体験は、現在のポジションでも生かされつつある。

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「様々な業界のお客様を通じて、自分の知らなかった世界を垣間見られること、お客様の困りごとやいざというときにお役に立てることが仕事の醍醐味」という

東京海上日動は海外事業の拡大を狙い、米国でもここ10年間で複数のM&A(合併・買収)を重ねてきた。「グループ会社にはそれぞれ強みがあって、それをすっかり『東京海上化』してしまうのではなく、多様な強みを生かしながら東京海上グループの総合力を高め、成長をどう実現していくか」。グローバル人材の育成とともに現在進行形のミッションだが、「パズルを解くように想像力や論理を駆使して問題を解決することが好き」という生来の探究心で、少しずつ答えは見えてきているようだ。

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