STORY 東京海上日動火災保険 vol.17

被災地とつながりたい、東北自治体の勤務募集に志願

宮城県 震災復興・企画部震災復興推進課
三觜 英子さん

東京海上日動火災保険の三觜(みつはし)英子さん(44)は今、宮城県庁の職員として震災復興の推進に携わっている。横浜で生まれ育ち、本来は首都圏だけを勤務地とするエリア型社員だが、2年前、東日本大震災の被災自治体への出向ポストに自ら手を挙げた。2011年の震災直後に被災地でボランティアをした経験が出向志願の背景にある。民間企業で培った知見を行政に生かしながら、被災地のお役に立ちたいと宮城県中を駆け回っている。

「JOBリクエスト制度」を活用してキャリアの幅を広げる

「東北の被災地自治体の出向者を募集――」。15年秋、社内のイントラネット画面に表示された職務公募案内を見て、三觜さんは居ても立ってもいられなくなった。「この仕事にチャレンジしたい!」と、すぐに応募手続きをした。東京海上日動には特定の職務を公募する「JOBリクエスト制度」がある。この出向募集も同制度によるもの。公募時点で具体的な自治体名は記載されていなかったが、三觜さんは「被災地のためになる仕事であれば場所はどこでもいい」と気にしなかった。

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縁もゆかりもなかった宮城県の県職員に出向した三觜英子さん

1996年に入社して以来、勤務地はずっと東京だった。生まれてこの方、地方で生活したこともなかった。東北地方に親戚縁者がいるわけでもない。初めての地方転勤には不安を感じそうだが「心配も不安も全くなかった。それよりも東北とつながりたいとの思いが強かった」と目を輝かせた。インタビューをしていると、好奇心が旺盛で、積極的に外の世界とつながり自らの視野を広げようとするタイプにみえる。被災地で働きたいとの強い思いはその積極性に加え、東日本大震災直後の強烈な経験から湧き出ていた。

まずは三觜さんの経歴を紹介しよう。入社1年目は東京海上グループの生命保険会社設立の準備をする部署に配属され、そのまま新設の東京海上日動あんしん生命保険に出向した。新社会人の三觜さんにとって印象的だったのは周囲の先輩社員たち。「個性が豊かで心の温かい社員ばかり。一緒に仕事をして、この会社が好きになった」。4年目に東京海上日動火災保険の広報部に異動。6年半にわたって在籍し、社内広報、広告、報道と各分野を担当した。「色々なプロジェクトを主体的に手がけ、マスコミや広告代理店など社外との接点も多く、仕事が面白いと思うようになった」という。

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「入社1年目で会社が好きになり、広報部時代に仕事が面白いと感じるようになった」と振り返る

その後、秘書室勤務を経て、CSR(企業の社会的責任)のコンサルティング会社に1年間出向した。広報部時代に東南アジア、フィジー、インドでのマングローブ植林などのCSR活動の情報発信に携わっていたこともあり、自らの視野をさらに広げられる仕事だと思って取り組んだ。

被災地でボランティア活動、「日本全体で何とかしなければ」

11年3月11日の東日本大震災は、この出向期間中に起きた。社外とのネットワークを広げていた三觜さんは、知り合いが所属する国際NGO(非政府組織)のボランティア活動に参加。地震発生からまだ3週間の3月末に1週間休みを取り、被災地へ炊き出しに出向いた。場所は岩手県宮古市山田町。足を踏み入れた被災地は地震と津波でがれきが散乱し、火災で家屋などが黒く焼けただれたエリアもあった。辺りにはヘドロのような臭いが漂い、鼻をついた。

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東日本大震災直後、岩手県宮古市山田町の避難所でNGOの仲間と炊き出しのボランティアをした

「ここは本当に日本なのか。まるで海外の紛争地帯のようではないか」。テレビの画面だけでは伝わらない現地での衝撃に激しく動揺したという。避難所で炊き出しをしながら、凄惨な現実を前に感じたのは「自分にはたいしたことができないという無力感」だった。「これは被災地だけの問題ではない。日本全体で何とかしなければならない」という思いがそれ以来、ずっと心の中にあった。

震災から5カ月後、三觜さんは出向先から東京海上日動に戻り、経営企画部CSR室に配属された。CSR室で取り組んだのは被災地支援の活動だ。社員ボランティアを募って岩手、宮城、福島を訪れ、側溝の泥かきをしたり、松林が津波で流された海岸地域で植林をしたりするボランティアツアーなどを企画・運営した。また東京では被災地の物産展も企画・開催した。NPO関係者と一緒に仕事をすることも多い。「ボランティア精神の強い方たちと意見交換するなかで、刺激を受け、啓発されることが多々あった」

約2年のCSR室勤務を経て、旅行保険の営業部門に異動した。入社18年目にして初めての保険営業部門にもかかわらず、チームのリーダーを担う立場だった。それまで営業経験がないため、業務を始めると分からないことばかり。「チームリーダーなのにできないことが多く、最初の半年ほどはメンバーに申し訳ないという気持ちが強くて、つらかった」と打ち明ける。それでも持ち前の積極性でチームを切り盛りした。メンバーと苦楽を共にするなかで、チーム力がもたらす信頼や感動を知り、今までにない達成感を得るようになったという。そして2年が過ぎた頃に、社内イントラで被災地自治体への出向者募集を見つけた。心に引っかかっていた被災地への思いが応募へと駆り立てた。

短期間でイベントを企画・開催、民間のノウハウを行政に生かす

三觜さんが宮城県庁への出向を告げられたのは、応募から半年が過ぎた16年3月初め。それまで音沙汰が全くなく「今回のリクエストはダメだった」と思い、すっかり忘れていたなかでの内示だった。会社から課された使命は「被災地の役に立ってきなさい」という一言。「うれしくて、ワクワクした」という。地方自治体の仕事の進め方にも興味があり、民間企業の経験をどうすれば役立てられるのかという前向きな思いが頭の中を駆け巡った。

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宮城県震災復興推進課の山﨑賢治課長補佐(左)は三觜さんを「大きな戦力で欠かせない存在」と評する

同年4月に宮城県の震災復興推進課に着任すると、すぐに6月の東北復興月間での取り組みを企画する仕事が待っていた。開催まで準備期間が短かったが、イベントの企画・運営は、東京海上日動の広報部やCSR室で何度も経験している。「宮城県復興フォーラム」と題して、村井嘉浩知事と仙台市在住の人気歌手、さとう宗幸さんとの特別対談などを通じて県民に「復興」について考えてもらうイベントを企画。会場がほぼ満席となる240人の県民を集めて無事に成功させた。県での初仕事だったが「ノウハウがあったので気負わずに落ち着いて取り組めた」という。

震災復興推進課課長補佐の山﨑賢治さんは三觜さんについて「民間企業での経験を行政に生かしてくれる大きな戦力」と評価する。三觜さんは県が東北大学災害科学国際研究所と共に取り組んでいる「東日本大震災記憶伝承・検証調査事業」の事務局を担当し、震災10年目を目途に復興の経過を検証するプロジェクトの調査事業を大学の教授らと進めている。また復興庁が進める「新しい東北」という、各地域がNPOや地元の民間企業などと連携して地域のにぎわいを取り戻す取り組みにおいて、県の窓口を担っている。山﨑さんは「損保会社の見地からのアドバイスやNGO・NPOの視点からのアイデアに助けられている」と語った。

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「宮城県のことをもっと知りたい、多くの人とつながりたい」と杜の都・仙台を拠点に県内各地を訪ねまわっている

三觜さんが宮城県に赴任して約1年半が過ぎた。行政や大学、民間企業など多くの人々と仕事をするなかで印象的なのは「県民が抱いている地元愛の強さ」だという。未曽有の被害に遭ったからこそ、多くの県民からは「一日も早く復興させたい。震災前より魅力的なふるさとにしたいという想いを強く感じる」という。そうした想いに触れるだけに、今の仕事には強いやりがいを感じ、自らも宮城県のことが好きになった。

宮城県庁での任期は2年間。三觜さんは同僚の県職員の紹介などで、県内の市町村の勉強会にも積極的に参加し、市町村職員などの人脈も広げている。県内にある35市町村のうち、プライベートの小旅行でこれまでに25市町村を訪れた。県庁で一緒に仕事をする吉田美穂さんは時々、一緒に小旅行に出かける仲。三觜さんを「いつも前向きで、相談しやすい先輩」といい、「フットワークの軽さは見習わないといけない」と仕事ぶりに刺激を受けているそうだ。

「首都圏以外で初めて暮らしてみて、宮城県の食の豊かさや風土の魅力など、地方が有している価値を初めて体感して知ることができた。ふるさとができたような気持ち。これは自分の大きな財産になる」と三觜さんは言う。来年3月までの任期内に、県内35市町村すべてを訪問するのが今の目標だ。県内でつながった人脈をさらに広げ、東京海上日動と宮城県とのパイプをもっと太く強くし、被災地の復興に少しでも貢献していきたいと、今日も積極的に宮城県内の人々とコミュニケーションを図っている。

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