STORY 「挑む」 Front Runner vol.3

ニュートリノ観測を牽引、宇宙誕生の謎に迫る

京都大学大学院 理学研究科准教授
市川 温子さん

なぜ我々の宇宙は物質でできていて、対になる反物質は存在しないのか。その謎を解く鍵を握ると期待されている素粒子ニュートリノの研究は、小柴昌俊や梶田隆章のノーベル物理学賞受賞につながった。茨城県東海村の加速器施設「J-PARC」から打ち出したニュートリノを岐阜県飛驒市の観測施設「スーパーカミオカンデ」で捉えるT2K(Tokai to Kamioka)実験は、そうしたニュートリノ研究の最先端プロジェクト。京都大学准教授の市川温子は立ち上げから参加し、現在は世界中の研究者約500人を牽引する存在だ。(文中敬称略)

「CP対称性の破れ」の実証を目指す

「『CP対称性の破れ』を見たい。それがモチベーション。気づくと20年たっていた」。こう話す市川の目標に大きく近づく一歩となる論文が2020年4月、英科学誌Natureに掲載された。T2K実験のデータから、CP対称性がどのくらい破れているかを示すCP位相角に初めて制限をつけることに成功したのだ。

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京都大学大学院理学研究科の市川温子准教授はT2K実験の代表を務める

ニュートリノをはじめとする素粒子のCP位相角は、理論的には-180度から180度までの角度をとる可能性がある。CP対称性が破れずに保存されていたならばCP位相角は0度か180度になるが、論文ではニュートリノのCP位相角が-2度から165度の範囲にはないことを99.7%の信頼性で確認した。これまで全くわかっていなかったCP位相角の範囲を大きく制限でき、CP対称性が破れている可能性がぐっと高まった。

新しいことをやりたい

ビッグバンで我々の宇宙が誕生した時に、通常の物質を構成する粒子と、逆の電荷を持った反粒子がほぼ同数誕生したと考えられている。粒子と反粒子がぶつかると互いに消滅してしまい、物質は残らない。全く同じ数だけ粒子と反粒子ができていたなら、現在の宇宙はなかったはずだ。しかし物質のもとになる粒子の数がわずかに多く、宇宙ができた。このわずかな差を生むのが、CP対称性の破れだ。

素粒子クォークではCP対称性が破れていることが観測され、小林誠と益川敏英が理論的にそのメカニズムを説明したため、両氏はノーベル物理学賞を受賞した。しかしクォークのCP対称性の破れだけでは、我々の宇宙に存在する物質の量を説明できない。ほかのメカニズムでもCP対称性の破れが存在するはずで、その有力候補がニュートリノのCP対称性の破れというわけだ。ただ、 T2K実験などで測ろうとしているCP対称性の破れだけで十分に物質ができるかどうかはCP位相角の値による。「どのくらい破れているかが重要で、それが測れそうだとわかった」と顔をほころばせる。

市川がT2K実験に参加したのは、京大大学院博士課程を修了した時だ。大学院ではダブル・ハイパー核と呼ばれる特殊な原子核の実験に取り組んでいたが、新しいことをやりたいと考えていたところ、ちょうどT2K実験が提案された。当時は3種類あるニュートリノのタイプのうち、ミュー型がタウ型に変化するニュートリノ振動が確認されて間もない時期だった。京都大学教授だった西川公一郎に話を聞きに行き、おもしろそうだと飛び込んでみると、そこは「全くの更地だった」と振り返る。

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ニュートリノの親粒子であるパイ中間子を飛ばす「崩壊トンネル」内で磁場を測定(2008 年12 月、高エネルギー加速器研究機構(KEK)のJ-PARCニュートリノ施設で)

T2K実験はもちろん、ニュートリノを打ち出すJ-PARCもまだ計画段階。T2K実験の前身にあたるK2K(KEK to Kamioka)実験がまだ進行中で、主だった研究者らはそちらにかかりっきりだった。当初、実動部隊は市川を含めて2~3人だった。「自分の手を動かして、こうしたらいいと思うことをそのままできた」

だがT2K実験で使うニュートリノビームの強度はK2K実験の50倍。これまでだれも扱ったことのない強度だった。ニュートリノを発生させるために陽子をぶつける標的は、最初の見積もりでは溶けてしまって使い物にならない。ニュートリノが飛んでいく方向をそろえるために欠かせない心臓部品の電磁ホーンも、従来の方式では大きくなりすぎて作れない。どうしたら当初の計画の通りに強力なニュートリノビームを作れるか、市川らは頭を悩ませた。ほかにもどうしたら強力な陽子ビームの衝撃に耐えられるのか、発生する放射線に耐えるようにするにはどうしたらいいかなど、解決しなければならない課題は山積していた。

そこに救いの手を差し伸べてくれたのが加速器で経験豊富な欧米の研究者たちだ。懸命に取り組む市川たちが教えを乞うと、惜しげもなく自分たちの経験を共有してくれた。なかでも定期的に開かれる世界的なニュートリノビームの研究会で失敗の経験を持ち寄る会合は、参考になったという。「こういうところまで見せていいの、と思うところまで見せてくれた。素人だったので正しいと思ったことはどんどん取り入れた」

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T2K実験グループのメンバーと試運転のために設置した電磁ホーンの前で記念撮影(2007年4月、高エネルギー加速器研究機構で)

遊び場は実家の工場

K2K実験が終息していく過程で、T2K実験に加わる研究者は次第に増加。市川は電磁ホーンなど主要部分の開発に集中していく。電磁ホーンは構造を工夫するなどして小型化、予定通りに完成させた。この成果は猿橋賞の授賞理由の中でも、特に高く評価された。実験データの解析でもニュートリノを作る前の親粒子にさかのぼる新たな手法を提案、より精度よく解析できるようにした。T2K実験は2009年に動き始め、2011年にはミュー型のニュートリノが電子型に変化するニュートリノ振動を初めて実験で確認した。

「落ちこぼれでした」。京大男女共同参画推進センターのサイトに掲載された紹介記事で、市川は大学入学当初の自分をこう振り返っている。物理学に興味を持ち、浪人してまで進学した京大理学部だったが、周囲は秀才ぞろい。講義についていけずに取り残され、一時は何もかもおもしろくなかったという。しかし学部時代に選択した加速器実験で、体を動かしてデータを取る楽しさに目覚める。大学院では加速器を使う原子核物理学を専攻した。

京大大学院時代の指導教員だった今井憲一は、研究のアイデアと実験の場所を提供し、あとは市川に研究を自由にさせてくれた。市川は実験に必要な検出器を自分で作った。工場でフライス盤を使って部品を削り出す作業にも取り組んだ。加速器のビームを使った測定で意味のあるデータがなかなか得られずに、もうやめようかと思ったこともあるという。だが目標のために何年もかけて装置を作り、データを取って成果を得る楽しさは何物にも代え難かった。「諦めずにがんばるとすごく楽しい。病みつきになった」

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3台ある電磁ホーンのうち最も大きい第3ホーンの前で共同開発者と(2007年、高エネルギー加速器研究機構で)

子供のころ、祖父が創業して親族で経営する工場でよく遊んだ。従業員が布を織るのに使う機械を自ら修理する父の姿を見て育った。工具に囲まれた作業場は大好きで、大学院時代に工場で作業することには抵抗がなかった。当時は意識しなかったが「今でもボイラー室に入ると落ち着く」と笑う。

テレビ番組『野生の王国』を見て獣医に憧れた。しかし動物の解剖には抵抗があった。暗記科目が苦手で、教科の生物にも興味が持てなかった。一方で物理学は好きで、ブルーバックスなどを読んで相対性理論や宇宙に興味を持った。高校では物理クラスを選択。クラスメートは男子ばかりだったが、「ガールズトークが苦手」(市川)だったので、むしろ気が楽だった。

不器用だが徹底的に取り組む

高校時代は弓道部に所属して地区大会で個人優勝したこともある。不器用だが面白いと思うことは徹底的にやる性格で、茨城県つくば市で過ごした大学院時代に仲間と楽しんだのがボウリング。京大ボウリング総長杯女子個人で連続優勝するほど上達した。ほかにもバドミントンやサイクリング、けん玉などにもはまった。研究を離れると「型に沿った動きを繰り返し、だんだんうまくなる娯楽が性に合っている」と自己分析する。

立ち上げから参加しているT2K実験の代表者に2019年に就任、世界から集まる約500人の研究者をまとめる立場になった。T2K実験では、さらに実験の精度を上げる取り組みが進む。2021年度にはJ-PARCに設置している前置検出器と呼ばれる装置をアップグレードする。打ち出したニュートリノがどういう状態で、どんな反応をどのくらいの頻度で起こすかを調べるための装置で、このデータがないとスーパーカミオカンデで観測したニュートリノのデータを正確に解析できない。

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二重ベータ崩壊探索のための検出器を一緒に開発している仲間と(2017年6月、京都大学で)

さらにJ-PARCではニュートリノビームの強度を現在の500kWから1.3MWに引き上げる準備も進む。岐阜県飛驒市にスーパーカミオカンデの8倍の規模を持つハイパーカミオカンデを建設する計画も動き始めた。ビーム強度の向上とハイパーカミオカンデがそろえば、T2K実験でデータを集める能力は20倍に高まる。データの蓄積が進むことで、CP位相角を99.9%以上の信頼性で測定できるようになるはずだ。ただ、ニュートリノのおかげで宇宙に物質しか存在しないことを証明するには、CP位相角を測定してCP対称性の破れを確かめるだけでは不十分だ。ニュートリノが、粒子と反粒子が同じで入れ替わりが可能なマヨラナ粒子であることも確かめなければならない。

これを確かめるのが2個の中性子が同時に陽子に変化する二重ベータ崩壊と呼ばれる現象を調べる実験だ。通常の二重ベータ崩壊では2個の電子と2個の反電子ニュートリノが発生する。ニュートリノがマヨラナ粒子ならば、2個のニュートリノが粒子と反粒子となって消滅し、2個の電子しか発生しない場合があるはずだ。このニュートリノが現れない二重ベータ崩壊を見つけようと東北大学の実験施設「カムランド禅」など世界で実験が進むが、確認はまだできていない。

真実を知る喜び

市川はこの二重ベータ崩壊探索のために新たな方式の検出器の開発にも取り組んでいる。基礎的な開発を終えて、大型化するための研究に乗り出したところだ。「ニュートリノがマヨラナ粒子であることの証明も、開発中の検出器で実現したい」と意気込む。

一見、なぜだかわからない現象も「ちゃんと調べると原因があってそうなっているとわかる」のが物理学の魅力。T2K実験でミュー型が電子型に変化するニュートリノ振動が確認されたとき、まだだれも知らないことを知っているという喜びを感じた。ニュートリノのCP位相角を正確に測り、ニュートリノがマヨラナ粒子であることを確認できたときには、さらに大きな喜びが待っているのだろう。 (日本経済新聞編集委員・小玉祥司)= 日経サイエンス 2021年1月号に掲載

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