STORY 「挑む」 Front Runner vol.1

テラヘルツ波と行動力で宇宙開発の未来を切り開く

情報通信研究機構(NICT) テラヘルツ研究センター上席研究員
笠井 康子さん

「光」と「電波」の境界に位置づけられるテラヘルツ波は、幅広い可能性を持つと期待され、応用が始まったばかりだ。情報通信研究機構(NICT)テラヘルツ研究センター上席研究員の笠井康子は、このテラヘルツ波で宇宙から地球の環境変動を調べるほか、木星や火星の探査を目指す。科学研究にとどまらず行政にまで踏み込みリーダーシップを発揮、宇宙開発の未来を切り開こうとしている。(文中敬称略)

火星探査機「TEREX」プロジェクトの代表を務める

火星の上空に何基もの超小型衛星を周回させてテラヘルツ波で観測。火星に眠る水資源や貴重な酸素を見つけ出し、火星の砂嵐などを予測する天気予報にも役立てる。初号機の打ち上げは2022年――。笠井がプロジェクト代表を務める火星超小型テラヘルツ探査機「TEREX」はこんな野心的な計画だ。NICTや超小型衛星開発で実績を持つ東京大学教授の中須賀真一の研究室や大阪府立大学などが参加する。

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火星探査は世界が競う最先端のプロジェクトだ。今年の夏には米航空宇宙局(NASA)が「MARS2020」、中国が「天問1号」を打ち上げて着陸を目指す。予定より2年遅れだが、2022年には欧州宇宙機関(ESA)とロシアも共同で「ExoMars」を送り込む。国家機関だけでなく、起業家のイーロン・マスクが率いる宇宙ベンチャー「スペースX」は、2024年にも有人宇宙船で火星への到達を目論む。笠井たちはそこに割って入り、宇宙ビジネスに直結する水資源の探査で先行することを狙う。「イーロン・マスクに負けたくない」。笠井はこう意気込む。

テラヘルツ波は電波と光の中間に位置する周波数の高い電磁波。サブミリ波とも呼ばれ、光の側から見ると遠赤外光にあたる。水や酸素などの検出に適していて、周波数が高いため通常の電波に比べてアンテナが小さくて済む利点もある。従来、宇宙探査機に搭載されていたカメラや赤外線などを使った観測装置では、これらの条件すべてを1つの装置で満たすことはできない。複数の観測装置を積まざるを得ず、探査機が大型化し費用がかかる。

テラヘルツ波を使えば小型化した装置1台で水や酸素の探査や天気予報などに必要なほとんどの観測が可能になる。超小型衛星に搭載して低コストで火星を調べられるというわけだ。探査機の開発費用は10億~20億円と、従来の探査機の10分の1以下に抑えられる。

小中高は球技、大学は空手 

東京・渋谷に生まれた笠井は運動好きの子供だった。転居した家から近い玉川学園に誰よりも朝早く登校。同級生が来るまでドッジボールをするための場所取りを兼ねて校庭で一人遊んでいた。小学校ではテニス、中学・高校ではバレーボールに熱中、大学では友人に誘われて空手部に入部した。「将来は体育大学に進むのでは、と周囲は思っていたようだった」と話す。

一方で、米国で薬学の研究者をしていたおばの影響を受けて科学にも興味を持った。小学生の時に地球儀をながめ、だれに教わるわけでもなく大洋をはさんで向き合った大陸の形がパズルのように一致することを発見。「昔、小さかった地球が膨らんで大陸がバラバラになった」という理由付けを一人で考えていた。読書も好きで1年間に100冊を超す本を読むほどだった。特に『大草原の小さな家』がお気に入り。本のどこにどの言葉があるかを覚えるほど繰り返して読み、まだ翻訳されていない巻を読むために英語を勉強した。

宇宙に関心を持ち、中学生の時には自転車で東大宇宙科学研究所(現宇宙航空研究開発機構=JAXA)を訪れた。JAXAの宇宙飛行士募集にも応募した。

「単科大学でマニアックなところが子供の頃から何となく好きだった」と話す東京工業大学へ進学し、大学院時代には国立天文台野辺山宇宙電波観測所の電波望遠鏡を使って宇宙を漂う分子の観測に取り組む。博士課程在籍中に一酸化炭素鉄(FeCO)分子を観測して構造を決め、鉄と一酸化炭素の結合が単結合でも二重結合でもない特殊な結合をしていることを突き止めた。発表のため参加した国際会議では「FeCO(エフイーシーオー)ガール」と呼ばれ、注目されたという。

電波天文学の研究は順調だったが、電波望遠鏡を使える時間は限られる。もっと観測してたくさんのデータをもとに真実を突き止めたい。そう感じていたときに出合った「SMILES」がテラヘルツ波に関わるきっかけになった。

SMILESは国際宇宙ステーション(ISS)からテラヘルツ波で地球の大気を観測、それまで不可能だった微量しかない分子の動きを捉えて気候変動などの研究に役立てようというものだった。野辺山宇宙電波観測所長だった稲谷順司に声をかけられ、企画段階だったプロジェクトに参加する。就職はJAXAにも合格したが、テラヘルツ波の研究に専念できるNICTを選んだ。

SMILESは極めて野心的な計画だった。テラヘルツ波での観測自体が新しかっただけでなく、宇宙では例のない超電導受信機などを開発。装置は全体で500kgと大型。海外の研究者から「クレージー」と言われたほどだ。しかし、笠井は「新しい周波数は新しい科学を生み出してきた。テラヘルツ波を使えば見えていないものが見える」と魅力を説明する。

2009年に打ち上げられたSMILESは冷却装置が機能しなくなるまで約1年稼働した。従来の10倍以上の感度で大気中に1兆分の1程度しか存在しない一酸化臭素や100億分の1程度の次亜塩素酸などの分布や動きを検出した。こうしたデータはオゾン層の破壊・回復の仕組みや、気候変動の影響などを詳しく調べる研究に貢献。10年たった現在も、SMILESのデータを使った新たな論文が発表されている。

「絶対に諦めない」

笠井自身も、オゾン層を破壊する一酸化塩素が昼夜を問わずベルト状に地球を取り巻いていることを発見した論文など、研究成果を相次いで発表。これまでに執筆した100本ほどの論文のうち半分はSMILES関連の成果だという。成果を発表するため海外の学会などに数多く参加。テラヘルツ波の研究者が少ないこともあって、「日本よりも海外に友人が多い」という。

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同僚と談笑しながら研究の打ち合わせを進める

SMILESの開発・打ち上げと並行して笠井は惑星探査に目を向ける。親しくなった海外の研究者たちと協力してNASAをはじめとする世界の探査計画に、テラヘルツ波を使った観測を提案して回った。しかし、なかなか採用されない。ようやく欧州が中心となって打ち上げる木星探査機「JUICE」での採用が決まったが、今度はJAXAがテラヘルツ波の観測計画への参加を渋って提案を却下する。笠井らの辛抱強い提案が実って日本チームの参加が認められたのが2012年。「私、絶対に諦めませんから」と笑顔で話す。

JUICEは木星とガニメデなどのガリレオ衛星を観測、地球外生命を探したり木星がいつどのようにしてできたかなどを調べたりする。笠井が開発チームの日本側リーダーを務める観測装置「SWI」はテラヘルツ波で衛星の表面や大気の組成のほか、海の中における生命存在の可能性や、木星の大気の成層圏と呼ばれる部分の詳しい動きなどを調べる計画だ。

2022年の打ち上げに向けて、日本で開発したSWIのアンテナなどは欧州に送ってあり、組み立てが進んでいる。木星に到達するのは2029年、ガニメデの周回軌道に入るのが2032年と10年以上をかける遠大な計画だ。

行政官と二足のわらじ

笠井は行政官の顔も持つ。きっかけはNICTを所管する総務省への出向だ。2014年に総務省が開始した破壊的イノベーションの種を産む「異能vation」政策の制度設計を担当した。「科学研究のプレーヤーも楽しいが、政策でイノベーションに挑戦する人を支援することもやりがいがある」

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「研究活動も楽しいし、支援行政もやりがいがある。科学技術を盛り上げて世界を変えたい」

通称「変な人」と呼ばれてネット上で話題になったこのプロジェクトは、ファイル交換ソフトの「Winny」を開発した金子勇やフェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグのような異能の革新的技術の開発を支援する。既存の政府系の研究助成では採択されないような情報通信技術(ICT)の課題であることが条件。知名度や実績、年齢、性別は考慮しない。通常は1年で古巣に戻るがユニークな取り組みが評価されて兼務を続けている。今では兼務が増えて内閣府のムーンショット型研究開発制度を担当している。

総務省がICTを活用した宇宙産業育成を検討するために設けた「宇宙×ICTに関する懇談会」にも事務方として参加した。SMILESやJUICEで科学探査のために使ってきたテラヘルツ波を、「ビジネスにも生かしたい」と考えるようになった。そこで立ち上げたのが超小型探査機による火星探査計画のTEREXだ。

TEREXが目指す水資源探査は、世界が競う宇宙ビジネスの中でも最も重要なターゲットの1つ。水は飲料や食料生産など人間が生きていく上で必要なだけでなく、水素と酸素に分解してロケット燃料やエネルギー源としても使えるからだ。地球での石油の役割を宇宙では水が果たすことになる。世界の宇宙ベンチャーが目指しているのは月の水資源探査だが、その先を行く火星にターゲットを絞った。

火星探査で広がる可能性

プロジェクトを立ち上げてから初号機を打ち上げる2022年までわずかに5年。2024年に打ち上げる2号機は火星を周回する軌道に乗せ、その後も同様の超小型探査機を続々と投入する計画だ。複数の探査機で火星全体をくまなく高頻度に観測することで多くの水が存在する場所を正確に見つけ出すことができる。地球を周回する軌道上に多数の小型衛星を打ち上げて通信など様々なサービスを提供するメガコンステレーションビジネスを、火星でいち早く実現しようという構想だ。水の探査のほか、火星の天気情報を提供するビジネスも視野に入れる。火星の大気は地球に比べて希薄なのでテラヘルツ波が減衰せず地表まで届き、地表までの大気の動きを観測できるからだ。

研究は呼吸と同じくらい当たり前のことで「一番最初に発見するのが好き」。いったん見つけてしまうと後は他の研究者に任せて、新たな分野の開拓に向かう。総務省に出勤する日は勤務する9階まで階段を全力で駆け上がる。「科学技術で世界を変えたい」。こう話す笠井は「異能の人」なのかもしれない。  (日本経済新聞編集委員・小玉祥司) = 日経サイエンス 2020年6月号に掲載

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