インタビュー

映画『ノマドランド』にみる自分らしい生き方 ヤマザキマリさん

2021年(第93回)米アカデミー賞主要6部門ノミネートの映画『ノマドランド』(配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン、3月26日ロードショー)は、米国社会で増えている「現代のノマド(放浪の民)」と呼ばれる人々の姿を描いた作品です。家を持たずキャンピングカーなどの車で生活し、季節労働の現場を渡り歩く生き方を彼女たちや彼らはなぜ選んだのか――。世界中を旅し、暮らしてきた漫画家・文筆家のヤマザキマリさんにこの映画についてインタビューしました。ノマドたちの生きる姿への共感、新型コロナウイルス禍における本作品の意義や芸術の重要性など多岐にわたる内容を語っていただきました。

「人間の生き方は多様である」

――ヤマザキさんは17歳で単身イタリアに渡って絵画を学び、若いころは経済的に厳しい生活を送られました。これまで中東や米国などでも暮らし、世界中を旅してきましたが、ご自身の人生を踏まえて、この作品をどのように見ましたか?

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ヤマザキ マリさん。漫画家・文筆家。1967年東京都出身。17歳で単身イタリアへ渡り、エジプト、シリア、ポルトガル、アメリカなどに在住。著書に『テルマエ・ロマエ』『ヴィオラ母さん』『たちどまって考える』など

「米国の白人社会で経済的な豊かさからはじき出された人たちの生き方を、忖度(そんたく)なしに、実直に表現している内容そのものにまず衝撃を受けました。私も絵画の道を選んで十代でイタリアへ渡りましたが、若いうちは経済力がなく、電気やガスを止められたり、家から追い出されたり、生活する場所も失うほど貧しい経験をしたことがあります。そのときの世間と自分の価値観との齟齬(そご)や、経済の力に太刀打ちできず日々あえぎ続けた経験が、映画に出てくるノマドたちの姿と重なりました。お金を生み出さなければ人は生きる価値がないのかと、資本主義の先進国アメリカの自問自答とも捉えられました」

「主人公ファーン(フランシス・マクドーマンド)は企業の破綻で住居を失い、ノマドとして暮らし始めますが、そこから彼女が家族など集団への帰属という安定を必要としない生き方や性格を形作っていく物語に引き込まれます。家を構えて家族と一緒に暮らすのが当たり前という価値観ではなく、孤独ではあっても自由でいられる生き方を選択する。私も子どもが生まれてシングルマザーとして育てるなど"世間一般"とは少し違った道を歩んできたなかで、周りと歩調を合わせるような生き方、長いものに巻かれることが、果たして自分に合っているのか、本当にそれで充足や幸福を感じられるのかということを、何度も考えて生きてきました。ファーンが一人でいることを決断し、嵐のなか海岸の崖っぷちに立って、空に向かって大きく手を広げるシーンがありますが、自分の人生というものを全身全霊で受け入れている姿に見えて、胸が熱くなりました。自分もこうありたいと実直に思いました」

――そのときのファーンの心境ってどのようなものでしょうか?

「『孤独を自分のものにすることこそが、本来の生きるという意味なんだ』という感じでしょうか。彼女が海岸に行く前に、米国社会で幸せとされる家庭の暮らしをものすごく俯瞰して見ているシーンがあります。家と家族が人間にとっての幸せというのは多くの人が思うところでしょう。ところがファーンはそれが自分にとっての幸せだとは判断しない。帰属が安心を与えるという一般的な価値観に彼女は服従しない。人間が作り上げている社会は、職も夫も失った彼女にとって足元のおぼつかない砂上の楼閣であり、デコレーションケーキの表面飾りにしか映らなかったのではないでしょうか。そして崖っぷちで雨と風を全身で浴びながら、地球という惑星で、孤独を受け入れながらも、元気に生きていこうという確固たる自覚を体現したのがあのシーンだと思います。家があって家族があって慰め合えればいい、群集に属していればいいという価値観には当てはまらない生き方がある、人間の生き方は多様であるということをこの映画は主題にしているのだと思います」

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『ファーゴ』『スリー・ビルボード』でアカデミー賞主演女優賞2回のフランシス・マクドーマンドが主人公ファーンを演じた

「私なりにこれまで色々とつらい経験をしてきたうえで、今のような暮らしをしていると、ふとした瞬間、何もないところへ行きたくなります。幼少期に暮らしたことのある北海道もそうですが、壮絶な厳しさも、目もくらむような美しさも備えている、自分の生きる惑星である地球を体感できるような場所です。人間が地表の上に自分たちの基地のように作った社会の中に居続けていると、生きていることに対しての物差しを見失いそうで、自分を取り戻さないとだめだという衝動に見舞われるのです。私が旅に出るのはそういうときです。ファーンが車で居場所を定めずに生きていることにも、そういう要素があるのかなと思いました」

悲しみや喪失感に向き合う

――ファーンのような生き方は、強い心を持っていないとできません。

「ファーンや映画に登場するノマドの人たちは、まず社会や誰かに依存しながら生きているわけではありません。自分の命は自分ひとりで守っている。そこが最強だなと思いました。がんを患っているスワンキーというおばあさんは、自分が死ぬことを決してネガティブに捉えてはいません。生きることの最終地点である死に対する姿勢が前向きなのが、本当に素晴らしいと思いました。彼女は所有物を断捨離的にどんどん売っていきますが、生きるという執着やしがらみから開放される場面として印象深いものがありました。死ぬときは身ひとつだという身軽さを得るための決断も、人間にとっては難しいものです。この映画を見ていると気がつくことですが、自由というのは決して楽なことでも素敵なことでもありません。本当の自由とは、孤独との共生を意味していることも、この作品でははっきり表現されています」

「ノマドたちの精神的支えになっているボブという男性が、ファーンに語った話も心に響きました。『ノマドのみんなは高齢者で、悲しみや喪失感とともに生きている。そして死を受けて入れていく。それでいいんだ』と。彼自身もつらい過去を抱えて生きる人ですが、あのシーンには大きな安堵を覚えました。人間にとってはもともと悲しみも喪失感も精神を成熟させるためには必要不可欠な感覚なのに、現代人の多くはそれを怖がって、遠ざけて、避けて生きている。そんなことでは、一生無菌室から外へは出ずに生きていくようなもので、逆に精神が脆弱になってしまうでしょう。おまけに人間という生き物は怠惰だから、扱いの難しい感情と向き合うのが面倒くさいというのもあるのでしょうね。逆にノマドとして生きている人たちには、深い悲しみや喪失感と真正面から向き合っているからこそ、社会の囲いの中で守られて生きている人には身につかない強さが内在しています。もちろん、ファーンたちも志願してそうなったわけではないですし、そこに至るまでは惨憺(さんたん)たる思いをしてきたでしょうけれど、孤独を受け入れていくことも人間の生き方には不可欠だと感じます」

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心を強く持つために

――いまの日本社会は同調圧力が強まっている気がします。他人と違う生き方をするのが難しくはないでしょうか。

「難しいですね。周囲の群集に帰属できなかったり、したくないという意識を見せたりすると、その群れから仕打ちに遭うという人間の心理構造が、昨今では特に顕在化していると感じます。だから人間は自分の意思は後回しにして、長いものに巻かれる安堵を選ぶ。特に多様な民族が混在している国々とちがい、日本は違った価値観を持つ人を厳しくジャッジする傾向が強い。世間体という戒律によって自分の生き方や行動を決められてしまう。ファーンたちのような人生観や生き方は、特にこの国では受け入れ難いでしょう。それでも、日本だってそのうちあらゆる価値観を取り込まなければならない日が来るでしょう。人間というのは一様ではない、様々な国に様々な考え方があることを知り、理解してもらうよりも理解すること、受け入れることで、そこからそれぞれの人々が自分らしく生きられる新しい世界が開かれていくはずです」

「私たちの社会は、経済の力と社会への帰属がなければ生きていけないようにできています。これはもう精神性の生き物である人間という生態系の特性であり、間違っているとか正しいとかいう次元のことではありません。その中で生きていくすべを持つことも大切だと思います。ただ自分の中で周りとの価値観の違いを感じたら、同調している素振りをしても、その違和感は捨てないでしっかり持っていてほしい。私も日本で子育てをしていたころは教育や遊び方への価値観を周囲に合わせることがありましたが、内面で感じている不穏なものを自分で分析し、心の中で『私は同調できない』という思いを持ち続けていました。それは実に面倒で厄介なことですが、子供にも多角的なものの考え方が備わりますし、何より自分自身の心の強さにつながっていったと思います」

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「イタリアのように古代から社会や日常生活の中に弁証法が根付き、周りの人とあたりまえに意見を交わすという批判の習慣が根付いていれば、新しい考え方や価値観が育っていくこともかなうでしょう。しかし日本には思ったことは何でも口に出せるような風潮はありません。私が子供だった頃は言葉を言う人にも受け止める人にも振り幅の大きな寛容性があった。意味が伝わらなければ説明をし、お互に分かり合おうとするゆとりがあった。それが今では人々はまるで危険な病原菌のように、言葉のひとつひとつにビクビクして生きています。このままでは、将来私たちが使える言語はほんの僅かなものになってしまうでしょう。思考は、言語に置き換えなければ身につかないものです。どうしても何かを言葉にしたい時は、たったひとりでもいいので、すべて話せる相手がいると力になるでしょう。家族でも恋人でも親友でも。相手がいないのなら、日記に書くのだっていい。言語化は自分という豊かな土壌を耕すツールであり、心の強さにつながっていきます。SNS(交流サイト)で不特定多数の匿名者に共感を求めても、身につくのはいざという時になんの役にも立たない虚勢だけです。それよりもファーンのように旅先で出会うその時だけの人と後腐れない会話を交わすほうがいいのです」

「疲弊していた心に救いとなる作品」

――『ノマドランド』はリーマン・ショック後の米国社会を描いています。いまは新型コロナのパンデミックで世界に閉塞感が広がり、なかでも女性は雇用悪化の厳しい現実に直面して、心の面でも影響がみられます。

「これまでの私は東京の仕事場に2週間以上いることはなく、外国へ旅したり、夫のいるイタリアに行ったりと、ノマドのようにいつも旅していました。今回のように1年以上も東京に足止めされ、どこへも行けないという経験は経済的理由で移動ができなかった学生時代以来ではないでしょうか。この1年、価値観の差異を得ることで自分を強壮してきた旅ができず、私も精神的に疲弊していました。いろいろと些末な考えや代謝の悪い思惑が頭や心の中にあふれて飽和状態になり、鬱病の気配すら感じたこともあります。そんなときは臆せずに、多少迷惑がられても、誰かと話をすることが効果的だと分かりました。価値観の差異は何も物理的な旅ばかりから得られるものではなく、音楽や映画や読書によっていくらでも内面は掘り下げていけるし、そんなかたちでなければ得られない発見もある。友人たちとの対話が続く中で、インナートリップの重要性に改めて気づかされました」

「世界を旅するとこの地球には統一した価値観はないことが分かります。物事のとらえ方、倫理、宗教、それは場所を変えるだけで、いとも簡単に変化するんです。この惑星の住人たちは多様な価値観を持っています。ひとつの場所だけに長くとどまっていると、その限られた範囲の中で構築された価値観が当たり前になってきて、別の価値観を受け入れることや、その中で生きることの不安や怖さが生まれてしまいます。私が旅をするのは、地球上に作られた敷居が人間という生き物の性質上社会的には必然でも、精神のリミッターではないということを自覚したいから。この衝動は家族と暮らすイタリアにずっといても芽生えます。家族という帰属は有り難いけど、それとは別に孤独に強い自分でもあってほしい。だから旅に出かけてメンタルの老廃物を払拭する、その繰り返しです」

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「『ノマドランド』は、旅に出られず心が疲弊していた私にとって救いのひとつになりました。ファーンの生き様は、この過酷な世界で生きていく、もらった命を最後まで全うするというシンプルなものです。生まれてきたからには何か意味がある、何か達成させ、社会に認知されねばならない、といった自分の存在を特別扱いする承認欲求はみじんもありません。『今日も自分は生きている。これでよし!』という肯定感を教えてくれます。彼女をはじめノマドの人々には海の上を飛んでいる一羽の鳥のような、大地をさすらうオオカミのような、柵の存在を認めていてもそれにとらえられないかっこよさがあります。人の生き方の選択肢の一つとして、パンデミックで苦境に立たされている世界中の人々の心をたくましくしてくれる作品だと思います」

「芸術」は今こそ必要な心の栄養

――映画は主演のマクドーマンドが製作も担い、中国出身の新鋭女性監督クロエ・ジャオと組んで作られました。原作のノンフィクション「ノマド:漂流する高齢労働者たち」(春秋社)の著者も女性ジャーナリストのジェシカ・ブルーダーです。

「この映画には女性の現実的な目線だからこそ捉えることのできる、鋭利なリアリズムを感じました。見る人の期待に応えようとする余剰なエンタメ性もないし、場面の展開や切り取り方にも容赦がないというのか、アメリカという国の中で生きる人々の生々しい側面をあらわにしています。本当のノマドたちが自分たちの役割を演じていたということもあり、人間の言動にも一切わざとらしさがない。とにかく、ファーン役を演じるのは、マクドーマンドしかいないと思いました。彼女は疎外された中で生きている人が身につける佇まいや仕草の一つ一つを全て自分のものにしている。彼女の出演した過去の映画も既存の社会に立ち向かっていく強い女というイメージがありますが、彼女がこういうテーマに関心を持つのもわかる気がします」

「映画の舞台も米国西部でなければならなかった。この世に生まれて生きるということは、日々社会から思い込ませられるほど素敵なことばかりではありません。現実の世界は理不尽や不条理にあふれているし、苦しみやつらさも絶えません。だけど、我々人間には感動という生きる喜びを謳歌できる感情も備わっている。『ノマドランド』が映し出す大陸の厳しくも美しい大自然の光景がまさに人間の人生を象徴していると感じました。中東のシリアに暮らしていたころ、砂漠で囲まれた場所に何度も赴いていますが、厳しい環境でなければ鍛えられない精神の美しさや感動があるのだということを知ることができました。人生の過酷さは砂漠ではなくても、それは東京の都会の中であろうとどこでも突き当たるものですが、同じくらい感動的な要素であふれている。そんなコンセプトも見えてくるこの映画は本当に抜かりがない、きわめて完成度の高い作品だと思います」

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「今回のパンデミックによって経済的に追い込まれ、自分は生きていく価値がないと自ら命を絶っていく人がいます。死に逃げたくなる気持ちは私も経験していますから十分わかります。結局我々は経済の力のもとでしか生きていけません。ノマドたちもアマゾン・ドット・コムの配送センターで働くなど経済の力を必要な時だけ利用しながら、しかし完全な支配まではされずに、距離感を持って生きています。経済的に追い込まれたときに、メンタル面でそれに屈しない手段はいくつかあると思いますが、先述したインナートリップもひとつの方法でしょう。音楽や絵画、映画、文学などの芸術は今こそその力を多いに発揮してくれます。昨年、各国がロックダウンをしたときにドイツのメルケル首相が芸術の重要性を訴えるスピーチをしました。人がくじけずに生きていくためには芸術による心の栄養が欠かせないと説き、アーティストたちへの支援策を打ち出しました。今のような時代ほど、芸術の重要性を深く感じられる機会はありません」

「その意味でコロナ禍のいま、『ノマドランド』という作品が公開された意義は本当に大きいと感じています。経済的困難に打ちのめされないために、今だからこそ顧みることのできる本当の人間の生き方やあり方について、世界中の多くの人が考え、感じていると思います。社会における不条理や理不尽、そして悲しみといったつらい経験を重ねなければ得ることのできない、深く美しくいつでも自分の支えになってくれる感性があることを、この作品の中に見ることができるでしょう。私たちの中にひっそりと潜み続けていた大切ないくつもの感情を呼び覚ます壮大な音楽のような、真の芸術作品と久々に出合えた気がします」

【2021年4月26日追記】『ノマドランド』米アカデミー賞3冠に

2021年(第93回)米アカデミー賞の授賞式が4月25日(日本時間同26日)に米ロサンゼルスで開かれ、映画『ノマドランド』は作品賞、監督賞、主演女優賞の3冠に輝きました。中国出身のクロエ・ジャオ監督はアジア系女性として初の監督賞であり、女性監督がオスカーを受賞するのも11年ぶり2人目となる快挙です。主演のフランシス・マクドーマンドは1997年『ファーゴ』、2018年『スリー・ビルボード』に続き3度目の主演女優賞です。

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