STORY 東京海上日動火災保険 vol.14

新たな仕事に挑み世界広げる
熊本地震で生きた東京経験

東京海上日動火災保険 熊本支店
木村 衣井子さん

東京海上日動火災保険の木村衣井子さん(39)は3年半前、長年働き慣れた環境から飛び出した。熊本支店に勤めて15年目のこと。県外の転勤がない地域採用のエリアコース社員だが、会社の制度を使って自ら希望し、初めて東京本店に期間限定で転勤した。慣れない世界で3年近く勤務。新たな経験や人脈を得て今年4月にUターンで熊本に戻ってきた。それからわずか半月後、あの巨大な地震が肥後の地を襲った。

担当のディーラー社屋で甚大な被害

4月16日午前1時半前、眠りに就き始めた木村さんは激しい揺れで飛び起きた。14日夜に最大震度7の地震が起き、その後も断続的に大きな震動が続いていた。この夜も余震を警戒して自宅のリビングで家族と寝ていたが、前夜を上回る揺れに皆で急いで窓から外に逃げ出した。辺りは停電し、その夜はマイカーの中で宿泊。週末だったが翌朝は熊本支店に向かい、全国から届いていた救援物資を車に積み込んで、顧客先を訪ねて回った。

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熊本支店でディーラー営業を担当する木村さん。車で顧客先を訪ねて回る

木村さんは4月に東京から熊本に戻り、県内の自動車販売店(ディーラー)の営業担当になった。地震後はディーラーの店舗などを巡り、被災状況の確認や救援物資を届ける日々が約1カ月続いた。ショールームの大きなガラスがすべて割れ、コンクリート壁がはがれ、鉄骨の柱がねじ曲がった店舗があった。割れたガラスの壁にブルーシートを張ったまま営業を再開した店舗もあった。「一刻も早く復旧していただきたい。早く保険金をお届けしたいという気持ちでいっぱいだった」。半年以上たっても当時のことを思い出すと涙があふれてくる。

担当の取引先の多くは地震保険に加入していた。本社社屋に甚大な被害を受けたディーラーは仮設のプレハブで営業を再開した。土地は更地にして本社の建て替えを始めた。「保険金を早い段階で支払えてよかった」と木村さん。損害状況の査定や保険手続きなどでは社内関係者と頻繁に情報交換した。地震直後の混乱時には東京本店から被害状況などの情報を木村さんが求められるケースもあった。3年近い東京勤務の経験が相互の連絡を緊密にした。

「君よりできる社員はたくさんいる」

木村さんは熊本支店で入社10年ほどはオフィス業務を担当し、その後、営業担当になって外回りを始めた。自分が営業に向いていると思ったことはないが「お客様や代理店の反応が直接返ってくる面白い仕事」と感じるようになっていた。そんな頃のことだ。木村さんが衝撃だったという〝事件〟が起きた。

「木村は、自分が仕事ができると思っているだろう。全国に行ったら君よりできる社員はたくさんいるぞ」。信頼を置いている当時の課長に突然、強烈なことを言われた。その後も折にふれて同じ言葉が飛んできた。最初は耳を疑ったが、「私が負けず嫌いなのを知っての発言」とすぐに理解した。課長からはこれまで何度も、「Uターン異動」で熊本の外に一度出ることを勧められていたのだ。

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熊本支店で上司と話をする木村さん。地震後の対応で社内は一体感を強めた

その課長は国内外を問わずに転勤があるグローバルコースの社員。東京本店とのパイプが太く、木村さんが困って本店と交渉するときには、いつも動いてくれた。木村さんはそれを目の当たりにし、エリア社員とグローバル社員では社内人脈の差が大きいことを実感していた。自らが部下や後輩を持ったときのことを考えると、「社内のネットワークは上司として必要な要素」とも思い始めていた。

熊本の保険マーケットだけでなく、他の地域の動向や世の中の動きを知って視野を広げる必要性も感じていた。「自分の人間としての幅を広げるために東京本店で勤務してみたくなった」。課長が強い言葉で背中を押してくれたことで、意思は固まった。東京勤務を希望すると、まもなく東京本店への人事異動が発令。2013年7月、全国のディーラー営業の施策や方針を策定する自動車営業開発部での仕事が始まった。

大学時代以来の東京生活だが、当初は辛い日々が続いたという。周囲は知らない人ばかり。自然と肩に力が入った。会議をすれば驚くほどの談論風発で、意見をきちんと言えない自分に歯がゆさを感じた。「周りからは会社の制度で地方からやってきたエリアコース社員と見られている。早く成果を出さなければ」との自意識も焦りにつながった。全国の営業方針を策定するコーポレート部門の業務内容にも、これまでにない責任とプレッシャーを感じた。

熊本で女性の営業担当を育てていきたい

「辞めたい」「熊本に帰りたい」――。自分の無力さを感じ、半年ほどは何度もくじけそうになったという。しかし上司や同僚はいつも親切で相談に乗ってくれた。周囲の人々と一緒に仕事をする時間が増えるにつれ、当初まとっていた鎧(よろい)が脱げたのだろう。冷静に周囲が見えるようになった。「仕事ができる人も、自分の業務や担当領域以外については周りにきちんと聞いている。分からなければ素直に分からないと言って人に聞けばいいんだ」。そう気付いてから肩の力が抜けて楽になった。

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東京本店時代には全国のオフィス業務担当者の活動方針や目標などを策定した

自動車営業開発部在籍中はディーラー営業を支える全国のオフィス業務担当者の役割変革などを担当した。オフィス業務でもこれからは顧客を常に意識する営業的な感覚を身に付け、養っていく必要性を明確にした方針を打ち出した。東京海上日動ではエリアコースの女性社員が事務担当から営業担当になるケースが増えている。木村さんも自らが事務担当を経験し、そのノウハウを持って営業の仕事を始めたことを強みに感じていた。その経験を施策に反映させたという。

熊本に戻ってからディーラー営業をするうえで、自動車営業開発部にいた経験はさらなる強みになっている。以前は電話をかけるのも尻込みしていた東京本店だが、今は気軽に連絡を取り、かつての同僚から本店に集まる有益な情報を聞けるようになった。全国の他地域のディーラー動向を調べ、熊本の顧客に新たな営業提案もしやすくなった。

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後輩の女性社員を育てていくのも自分の役割という

木村さんは今、課長を補佐する立場でもある。「異動後間もないので、まだ自分の営業の仕事に精一杯。でも周囲を見渡して、組織として何をすべきかをきちんと考える役割を果たしていきたい」との思いは強い。特に「熊本で女性の営業担当を育てていくことは東京勤務を経験した自分の役割だと思う」と語る。東京で見てきたように、今は自分が分からないことがあれば後輩に聞いたり、時には愚痴をこぼしたりする姿をあえて見せるようになった。

熊本地震で損害保険の重要性も改めて実感した。地震保険に加入していた顧客が保険金によって再建に動き出す姿を見ることは、自らの仕事の励みにもなった。一方で、地震保険に入っていなかったため、被災しても保険金を支払えなかった顧客もいた。「お客様にもっと強く地震保険をお勧めしておけばよかった......」。これまで熊本地方は大きな地震が少なかったため、強力な提案はしていなかったとの後悔と無念が残る。

飛行機で熊本の街を空から眺めると、ブルーシートをかけた屋根が今でも目立つ。被害の大きかった益城町ではガレキ撤去が進むが、家屋が倒壊したまま手付かずのところが数多く残っている。震災後の復旧復興はまだまだこれからだ。ただ地震から半年以上が過ぎ、保険営業の業務はほぼ通常に戻った。木村さんは東京勤務と熊本地震の経験を新たな糧に、「少しでも明日の自分が今日より成長しているように」と仕事に向き合っている。

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