過去開催イベントのレポート

真田幸村の生き様に思いを馳せる「高野山・九度山」へのいざない

いよいよ和歌山に行ってみようセミナー

 和歌山県の高野山とその北麓にある九度山町は、戦国武将のなかでも絶大の人気がある真田幸村(実名は信繁)のゆかりの地です。戦国乱世最後の戦い「大坂の陣」で徳川家康を脅かし、天下に名を轟かせた幸村ですが、大坂城に馳せ参じるまでの14年間は九度山で流人生活を送っていました。2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」は、この幸村が主人公です。和歌山県観光連盟と日経ウーマノミクス・プロジェクト実行委員会は12月6日、特別タイアップセミナー「働く女性のオン・オフに効く~真田幸村の生き様に思いを馳せる『高野山・九度山』へのいざない」を東京・大手町の日本経済新聞社本社で開催し、幸村の魅力に迫りました。

 セミナーには真田家のファンや聖地高野山などに関心があるという女性約160人が参加しました。冒頭、和歌山県のアンテナショップ、わかやま紀州館(東京・有楽町)の西本晴彦館長が「幸村が人生のクライマックスに向けて力を蓄えていたのが九度山町。歴史の魅力が溢れた地域です」と挨拶。続いて歴史学博士の小山譽城和歌山大学非常勤講師と、NHK「真田丸」の制作を統括する屋敷陽太郎チーフ・プロデューサーがそれぞれ講演し、トークディスカッションも開きました。

 「真田幸村の人生を左右した紀伊~高野山配流と九度山脱出」と題して講演した小山先生は、昌幸・幸村父子が1600年に蟄居を命じられるまでの経緯や九度山での暮らしぶりを解説。1614年の大坂の陣の際に幸村が蟄居中の九度山を脱出できたのは「地元の人々に慕われていたからこそ」との見方を示しました。酒席を設けて村人たちを酔い潰して脱出したとの説がありますが「集団が移動して気付かれないわけがない。少なくとも村人が黙認したのは間違いない。兄の信之は、幸村が柔和で優しい性格だったと書いている。人間的な魅力がある人だったから地元で愛され、無事に大坂城に入ることができた」と話しました。

 NHKの屋敷さんは講演の中で大河ドラマ「真田丸」制作の舞台裏を披露しました。その興味深い内容は会場限定のため、残念ながらここでは記せません。また「篤姫」の時の撮影秘話や、大河ドラマの番組放送後に届く視聴者からの意見・質問に関するエピソードもユーモアたっぷりに話してくれました。取材で幸村ゆかりの高野山蓮華定院や九度山を訪ねた屋敷さんはその居心地の良さから「幸村にとって九度山での生活が人生最良の期間だったのではないか」との感想を抱いたといいます。

 大河ドラマ「真田丸」ではこの14年間の隠棲生活をどのように描くかをまだ議論しているそうです。「蟄居中に幸村は何を思っていたか」を巡る話でトークディスカッションも盛り上がりました。屋敷さんは「村人の温かさに癒やされながら14年もの歳月が経つと、もう戦に出たいと思わなくなるのではないか。なぜ幸村は大坂の陣に駆けつけたのか。その思いにドラマを作りながら近づいていきたい」と意欲を示しました。

 一方、小山先生は「幸村は雌伏の時も希望を失わず、どこかで乾坤一擲の勝負に出たいとの強い思いを抱いていた」と見方を示しました。「大坂冬の陣での出城、真田丸の攻防戦は、父の昌幸が徳川勢を退けた上田合戦と同じ戦い方。蟄居中も父から戦術を学んでいた。脱出前に自らの老け込みを嘆いた手紙を国許に送ったのも、周囲に戦うつもりはないと見せかけるためだったのではないか」と説明しました。

 会場には九度山町から駆けつけた昌幸・幸村父子に扮した甲冑武者も登場しました。同町には2016年3月に「真田ミュージアム」がオープンする予定です。「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と呼ばれた幸村は、家族を大切にした逸話も多く残っています。高野山・九度山を実際に訪れ、幸村が14年間を過ごした地を巡りたいとの思いを抱いたセミナー参加者も多かったのではないでしょうか。

「真田幸村は周りから慕われ、親としての情愛も深かった」と話す小山譽城先生
「真田幸村は周りから慕われ、親としての情愛も深かった」と話す小山譽城先生
屋敷陽太郎さんはクイズも交えながら大河ドラマ制作の苦労などを話しました
屋敷陽太郎さんはクイズも交えながら大河ドラマ制作の苦労などを話しました
セミナーには約160人が参加。トークディスカッションなどに耳を傾けました
セミナーには約160人が参加。トークディスカッションなどに耳を傾けました
真田昌幸・幸村に扮した甲冑武者と記念撮影
真田昌幸・幸村に扮した甲冑武者と記念撮影