STORY アフラック vol.2

3度の「試練」に鍛えられ、より強くしなやかに

アフラック 常務執行役員
木島 葉子さん

仕事・プライベートを問わず人生にはピンチが付きものだ。アフラックの木島葉子常務執行役員(54)は30年余りに及ぶ会社人生で「3度の大きな試練をくぐってきた」という。東日本大震災など次々と押し寄せた危機に立ち向かい、乗り越えるたびに、ビジネスパーソンとしての強さとしなやかさを身に付けてきた。今は2018年に予定されている日本法人化に向けた「第4の試練」にチャレンジしている最中だ。

女性上司が教えてくれた「新しい仕事に挑戦する」大切さ

都内にある四年制の女子大を卒業し、アフラックに就職したのは1986年4月。男女雇用機会均等法のいわば第1期生だが、女子学生の就職はまだ短大卒の方が圧倒的に有利で「四大卒かつ浪人経験もある自分に就職試験を受けさせてくれる企業は数少なかった」。大学の就職課に来る求人は、クッキングスクールの助手など一部の職種に限られていた。「もう就職をしなくてもいいや」との思いも去来したが、母親に「社会経験を積みなさい」と背中を押されて就職試験を受けたのが、四大卒女子学生にも門戸を開いていた外資系のアフラックだった。

Kijima12_680x420.jpg
入社当初は仕事にやりがいを見いだせなかったと振り返る木島葉子さん

入社後に配属されたのは、保険料の口座振替の事務手続きなどを担う料金部。契約者や代理店から送られてくる大量の申請書類とにらめっこし、その内容をコンピューターにカタカタと打ち込む業務が中心だった。淡々と目の前の仕事をこなしていただけの毎日。「早く仕事を終わらせて帰宅することしか考えていなかった」。しかし5~10人のチームを束ねるリーダー格となった入社3年目ごろ、当時の上司だった女性は、そんな木島さんの姿勢を許してくれなかった。

「あなたの仕事はお遊びの延長。次のポジションを目指すつもりがないなら、さっさと会社を辞めなさい」。女性上司は厳しく叱咤(しった)するだけではなかった。当時は社内で男性の業務とされていた地方出張に木島さんを積極的に連れて行き、代理店を集めた地方支社での研修を任せるなど貴重な経験を積ませてくれた。「今の仕事にしがみつかず、後輩に渡しなさい」と説く女性上司と充実した日々を過ごす中で「この会社で、どんどん新しいことにチャレンジしていこう」と思いを新たにした。

kijima00_400x250.jpg
コールセンター設立に向け国内外を飛び回っていた1995年ごろ

95年からはアフラックにとって初となる自社コールセンターの立ち上げ準備に携わる。ノウハウを学ぶため国内の金融機関や通販会社のコールセンターを数多く見学したほか、米国にも出張して現地の先進的な大型コールセンターを視察。どのようなシステムを構築して業務の効率を高めていくべきか、会社全体を考えながら必死に知恵を絞ることで「自分の考えや視野が大きく広がった」と振り返る。

支払い漏れ問題の危機、顧客対応を陣頭指揮

その後、課長や部長への昇格など順調にキャリアを積み重ねてきた木島さんに、最初の大きな試練が訪れる。2007年春に全容が判明した国内生保業界による保険金や給付金の不払い・支払い漏れ問題だ。殺到する契約者からの電話にどう対応するべきか。生保業界全体を揺るがした危機的な状況下で、アフラックは木島さんに白羽の矢を立てた。任されたのは顧客対応の陣頭指揮を執る「コンタクトセンターサービス部長」の職。内示を受けたのは就任前日。火中の栗を拾う形で就任した日は、偶然にも木島さんにとって44歳の誕生日だった。

コールセンターには朝から、契約者の不安と怒りが入り交じった問い合わせの電話が波のように押し寄せた。どれだけ充実した想定問答集を準備しても、それだけではこの修羅場を突破できない。木島さんが重視したのは契約者の安心、そしてオペレーターのモチベーションだ。「あなたたちがきちんとお客様に対応することが、会社の信頼回復につながる」。東京都調布市や神戸市などのコールセンターに頻繁に足を運び、オペレーターに直接説いて回った。契約者への丁寧な対応を求めるだけではない。オペレーターの休憩室をきれいに飾り、お菓子やお茶を充実させるなど、木島さんらしい細やかな心配りも忘れなかった。

Kijima29_680x430.jpg
保険金・給付金の支払い漏れ問題、東日本大震災など大きな試練が続いた

次の試練となったのは2011年3月の東日本大震災だ。当時、契約管理事務企画部長だった木島さんは、被災地に住む約120万人の契約者に向けたお見舞い文書の作成・発送と、津波などで深刻な被害を受けた地域の契約者20万人の安否確認を任された。ここで木島さんは「大きな挫折」を味わう。一刻も早くお見舞い文書を送りたいという熱意を込めて必死に具体策を提案しても、社長ら経営陣に何度も突き返される。原因は「同業他社の対応や金融庁の動向を踏まえず、単に自分の考えだけをまとめて合意形成をしようとしていた」からだ。

お見舞い文書は何とかゴールデンウイークごろに発送できたが、電話や手紙などを通じた契約者の安否確認は難航した。混乱を極めた被災地では、避難所から避難所へと移動し所在不明となった顧客が多かったからだ。現地に派遣されたアフラック社員が1つ1つ避難所を回って「3日前にあの中学校で姿を見た」といった断片的な情報をかき集めて確認に奔走した。現地の代理店の協力も仰ぎ、何とか1年かけて契約者の安否を一通り確認することができた。

やりたいことをやれる文化を次世代に

第3の試練は13年4月に発生したアフラックのシステムトラブル。システムが完全に停止し、保険申し込み受け付けや保険金・給付金支払いなどあらゆる事務手続きがストップした。担当執行役員として危機対応にあたった木島さんは「震災の経験が生きた」と振り返る。焦ることなく類似案件などを冷静に分析し、トラブルのため滞留していた案件のキャッチアップやシステム復旧後の検証など、契約サービス部門が迅速に対応すべき事項を経営陣に提案。当時の社長(現・相談役)には今でも「震災の時の木島さんはひどかったけど、あの時はよかった」と適切なトラブル対応をたたえられるという。

Kijima38_680x430.jpg
2018年にアフラックを日本法人に移行するための膨大な作業が待ち構えている

そんな木島さんがいま直面しているのは、18年に予定する日本法人化への準備作業だ。現在のアフラックは米アフラックの日本支店という扱いだが、日本法人に移行するためには日本での取締役会の設置や株主総会の開催など、日本の会社法に基づいたガバナンス制度の整備が必須となる。会社法の専門書を読み込んで、法人化に向けた作業全体のコントロールを行うだけでなく、「決して得意ではない」という英語で米国本社とのやりとりもこなす。国内の保険契約者にとって日本法人化はまったく影響はないが、アフラックは約1500万人の契約者全員に通知書を送るなど、膨大な作業も待ち構えている。だが木島さんは全く臆することはない。

「たとえ未経験のことでも、上司や部下、そして社外の人たちのサポートを得られれば、できないことはない」。これまで3回もの試練をくぐり抜けた木島さんは迷うことなくこう言い切る。夢は「人を大事にして、やりたいことをやらせてくれる」というアフラックの文化を次世代に引き継ぐことだ。14年以降、アフラックは他社に先駆けてダイバーシティ推進や働き方改革に全社を挙げて取り組んできた。「働き方改革によってできた自由時間を勉強に充て、自分の『肥やし』にしてほしい。そうすればアフラックはもっと強い会社になる」。かつて厳しい女性上司にキャリア意識の醸成を迫られた木島さんは今、温かい目で後輩たちにこんなメッセージを送る。

会員登録すると、イベントや交流会への参加、メールマガジン購読などご利用いただけます。